半分の鏡について
https://rentksm.bandcamp.com/album/half-mirror
ソロアルバムを作りました。このアルバムは、抽象的で、個人的な音楽だと思います。それぞれの曲は「作った」というより、「できてしまったもの」という感触の方が近いです。アルバムを一旦完成させた後、内容を整理するために少し文章をまとめました。
いびつなままの音楽について
絵画では、フォルムが歪んだり、抽象的だったりしても、それは一つの美として割と受け入れらていると思います。
音楽では「いびつさ」はいまだに受容されにくいと感じています。
それはノイズ的な音という意味ではなく、人に聴かせるための完成されすぎた音楽が多くを占めているというニュアンスが近いかもしれません。
ジャンルやコード進行、構成といった形式、録音・ミックスにおける音の「正しさ」までもが、ある種の定型化された価値判断のなかで機能している。
このアルバムでは、空間オーディオを使っています。モジュレーションによって音の位置や大きさは常に揺らぎ、それぞれの音が「鳴っているのかどうかすら曖昧」な瞬間もあります。
また、曲についても完成像はあまり考えず、なんとなくまとまりが出来たところで終わりにしました。
完全にコントロールされた音楽ではなく、どこか欠損のある音楽だと思います。
「抽象音楽」として
この作品は、アンビエントでもノイズでも、Electronicでも宅録でも即興でもない、どのジャンルとも言いにくい、中途半端なスケッチのような音楽です。
もちろん当てはめようとしたらいくらでも当てはめれますが、自分の中では抽象音楽が近しい言葉だと思います。
自分にとっての心地よさや高揚感、意味や構造、ジャンルへのなじみに頼らずに、聴く人の意識していない感触を与えるような音楽。
iPhoneのレコーダーで録ったような音ともまた違う感触のものです。
個人的な滲みとしての表現
うまく演奏できないこと(ろくに弾けないギターや、適当にしか吹けないサックスなど)、きれいに整えられないこと(小さな音量・音圧、除去できない録音時のノイズなど)、そういったコンプレックスのようなものも、曲のなかにまとめられていますが、むしろ自分の輪郭のようなものなのだと思っています。
また、いつでもどこでも聴取可能な音楽に対する、自分自身の飽き性な部分の隙間から生まれたものであるとも思います。
曖昧さや複雑さについて
この作品は、誰かに聴いてもらうことを強く意識して作ったわけではありません。
世の中はあまりに多くのことを悪気なく「わかりやすく」「シェアできるもの」として提示しようとする時代に生きています。
スマホでアクセスする情報は適当なアルゴリズムにより自分に親しみのあるとされる情報に案内されたり、空虚なノイズ(無駄な広告たちなど)を見せつけられます。
内面や曖昧さ、闇のようなものは、公共空間から退けられており、可視化できない表現やすべて明らかにしない表現がこれから必要になってくると思います。